Description
1833年、優秀な発明家であったアントワーヌ・ルクルトは同時に独学で学んだ時計職人でもありついに時計工房のアトリエ設立へと歩みを遂げました。 1866年に息子のエリーがジュウ渓谷に初めてマニュファクチュールへの大きな歩みの始まりとなりました。 そうしたマニュファクチュールとしての工房にはスイス内外から多くの腕に自信のある技術者が集まってきました。 ある意味ルクルト工房の前身は
そんな特殊な技術者の専門家集団となっていました。皆さんがご存じの後の共同経営者のエドモンド・イエーガー氏もその一人で彼はフランスのブレゲ工房から訪れた技術者の一人でした。 スイス時計業界に大いに影響力を持った専門家集団はあらゆる当時の時計工房からまたはアイデアを持ち寄った起業家達から沢山の時計の製造を請け負う存在となっておりました。 スイス時計史の歴史を紐解けば数々の有名時計メーカーの請負仕事を多数こなした事が伺い知れます。 カルティエ社、パテックフィリップ社、オーディマピゲ社、ヴァシュロン・コンスタンタン社等後の一流メーカーの礎を作った企業といっても過言ではありません。 今やジャガールクルト社の最も代表的な時計の一つ、リベルソも実は元々ジャガールクルト社のアイデアではなく、セザール・ド・トレーというロンドンの実業家からの依頼されたモデルでした。請け負ったルクルト社も実は最初期のリベルソにはルクルト社の機械が間に合わず、
タヴァン社の機械で一号機が出来たのも当時の受注製造のアクシデントに因るもの?かも知れません。このユニプランの時計のもしかすると他社のキャリバー(LISICA S.A.)の機械が使用されている点からリベルソの一号機と同じような事由がある様に思われます。
何れにせよこのユニプランは明らかに後のジャガールクルト社のリベルソや同年代のモデルの文字盤と同じデザインコンセプトで作られた物には違いありませんし同時期のデュオプラン等ルクルト社のネーミングで同名のカレンダーウォッチ等存在しますので、そのような「プラン」が付くネーミングモデルは明らかにジャガー社によるものと思われます。1833年に小さな工房として歴史の幕を開けましたが、約100年後の1934年に初めて「ジャガールクルト製品販売会社」と登記されて今日沢山の名品を作り続けた名門時計製造メーカージャガールクルト社は誰しも知り得るスイスを代表する時計メーカーと正式名称で呼ばれるようになりましたが、正式登記される以前は先に述べました様に名だたる時計メーカーの製造協力会社としての歴史を誇る時計製造専門技術者集団であったようで、このモデルもジャガールクルト社が沢山のモデルに冠していたUNIPLANのネーミングや明らかに同社のデザインコンセプトに沿ったダイヤル・ケースデザインからジャガールクルト社のスタッフが恐らく少なくともこのモデルの開発の企画の中心となって行ったものと思われます。この時計は正式にジャガールクルト製品販売会社となる前後に製造されたモデルであろうと思われます。