Description
ジャガールクルト社の歴史はスイス時計メーカーの中で大きな役割を果たした欠かせない存在であった事は、揺るぎのない事実です。 アントワーヌ・ルクルトは1833年に時計製造メーカー・マニュファクチュールとして初めて時計工房を作り、4人の弟子と共に創業して以来、常に技術的には最先端を歩んでおりました。1800年代の後半にはかなりの小型化された精巧な機械が完成しており、例えば1925年まではパテックフィリップ社に腕時計の機械を供給していたり、ヴァシュロン・コンスタンタン社のキャリバーは近年に至るまで深く携わっており、またオーディマピゲ社も1946年に完成させた超薄型キャリバーの開発はジャガールクルト社協力ありきの事でした。ジャガールクルト社は他社のキャリバー開発には無くてはならない存在で有った訳です。 1900年初頭のブレゲ工房出身のエドモンド・イエーガー氏の参画がさらに同社の製造技術を押し上げ、1917年、ジャガー・ルクルト社となって、押しも押されぬ時計製造メーカーへと成長を遂げました。エドモンドが興したメーカーJAEGER/イエーガー(ジャガー)社は1900年の初頭にカルティエ社が15年間の販売権を取得し、フランスでの販売網を揺るぎないものにしました。このジャガー社は自動車のメーター、飛行機のメーター類まで製造する精密機械製造会社と発展し、時計製造と併せて大きな精密機械工業の担い手となりました。その延長線上にカルティエ社と共同出資してパリに時計専門工房を立ち上げ、ご周知のカルティエブランドの時計の礎となった時計工房(ヨーロピアンウォッチ&クロック社)となりました。
このようにルクルト社とジャガー社は時には共同で、また時には別々の道を歩みながら時計業界に多大な足跡を残しました。
ルクルト家の4代目、ジャック・ダヴィド・ルクルト氏はリベルソ、バックワインドのデュオプラン等沢山の人気モデルを構築し同社を稀に見る巨大マニュファクチュールとして会社を発展させ1948年に亡くなりましたが、その遺志を引継ぎ1950年代も沢山の新しい規格のモデルを世に送り出しました。
このモデルは今や同社を代表するモデルと言っても過言ではないと思います。 しかしこのモデルの開発に当たっては少々稀なエピソードが存在します。
実はこの時計は最初からジャガールクルト社の考案で作られたモデルでは無いのです。 1930年代が始まった頃、イギリス植民地であったインドのポロ競技会場にたまたまスイス人実業家で時計の販売に転職したセザール・ド・トレー氏が競技観戦後にポロ出場選手との懇親会の席で、腕時計の上面のガラスが割れた時計を見せられ、このような事にならないような時計は作れないか尋ねられました。それをジャガールクルト社の4代目、ジャック・ダヴィド・ルクルトに相談し、当時ジャガールクルト社は時計に関する色々な専門家集団となっていた同社がケースの構造に関してはケース設計を担当していたアルフレッド・ショヴォーがケース上部を反転裏返しに出来る「リベルソ」を開発しました。ジャック・ダヴィド・ルクルトは機械部分を担当しました。 こうして出来た時計のパテントをセザール・ド・トレーは特許権を買取りジャック・ダヴィド・ルクルトと1934年にジャガールクルト製品販売会社を正式に立ち上げ、専門分野の職人の専門家集団から時計販売会社としてのジャガールクルト社が産声を上げました。
この時計は正に1930年初頭のリベルソの創成期の時計です。 文字盤は経年変化で、夜光塗料の剥離箇所、レイルウェイトラックが一部消えてますが当時のままのとても良いコンディションです。