人は何故目に見えない時間というものを目に見える形にしたか

必要=needsは発明の母と言われます。人類は常に存続する過程において自然に起こり得る事象を把握する必要がありました。それが人の集合体になればその共同体を維持するか解体するかという選択肢が発生します。一緒にいて便利な事、不自由な事が分かり、便利である事が不自由な事より増せば協力し合う必要を感じとります。次のステップとして人が増えるにつれ安全安心な心地よい居住地が必要となり、その集団が万一不自由な環境であればより良いところを求め彷徨う集合体となり、また元々住み良いところに集まった集合体は定住地として移動しなくなります。彷徨う集合体は必然的により良いところに移動しますが、万一先に定住者があればそこに合体するか、その集合体と争い定住地を奪い取るかの選択が必要となります。

先の定住者との戦いにはより大きな集合体(人員)が必要となり次第に力のある共同生活体が生き残って行きます。ある程度落ち着いて来ると沢山の人々が生活するに必要な食料の確保、それを統治する人員、統治する為のある程度のルール(簡易な約束事法規)必要不可欠になります。これが古代の民族や国家となる原型の始まりかと思います。前述しました食料の確保に大きく起因するものとして、陽が昇り陽が陰り再び陽が昇る1日の単位、その繰り返しの単位として季節が一巡する一年間、温度の変化、天候の変化、天候によって起こり得る事象の変化を把握する事が出来る様になりその把握が必要となります。これが暦の始まりとなったと思われます。そうした当初の大まかな時間の流れの把握の延長線上に1日の単位を知り細分化する必要が生まれました。それを更に細分化したもの、それをディスプレー化したものが時計なのです。

少し長くなりましたがこうして時間を計る道具としての古代の時計が生まれた訳です。

さて、時計という物がどの様に開発されたかは奥が深いのでここではすごく簡単にお話し致します。申し訳御座いませんが詳しくはご自身でお調べ下さい。

4大文明は流石に文明と呼ばれる歴史を育んだ民族だけあり時間を把握する術は先ずは自然の中から育んでいったようです。それは太陽光の影であったり水の溜まる速度であったりでした。1200年後期にはカトリックの規律によるお祈りの時間に街の優秀な鍛冶屋が初めて時計塔らしき物を作り時間を計る道具としての器材らしき物が出現しました。確認されるところでは北イタリアの教会の時計塔が最初の時計塔と言われております。1500年頃には現在のドイツ辺りで動力源のゼンマイが考案されクロックと呼べる置き時計が作られていたと言われています。1600年代振り子の等時性周期運動とゼンマイの動力による歯車の稼働を平均化する装置の工夫開発によりより精度の高い時計がほぼ完成しました。

中でも17世紀に入るとヨーロッパの列強国が帆船の大型化によりかなり長い航路と大規模な運搬が可能となり、海外資源の獲得競争の時代、大航海時代を迎えました。ところが一度航海に出るとどの航路でどのくらい行くと陸地に辿り着けるか、水や食料の補充が可能か、船の安全運行と乗組員の命を守るには海図や距離の把握が必要不可欠であった為、各列強各国の課題は巨大な海域の把握、どのくらいの速度でどの方向に行けば陸地に辿り着けるか、その為の緯度と経度(海図上のライン)の把握が大きな課題となりました。各国の天文学者、物理学者、数学者等アカデミックな学術者面々が国の提示する賞金に脈々とチャレンジしていきました。

結果的にはイギリス人の大工見習いから時計師となったジョン・ハリソンが、これまでの振動の無い場所で精度良く動く時計(振り子の周期運動で精度を安定化)を海の上ではどうしても波による振動の中、嵐等の如何に大きな波の中でも影響を受けない時計を約40年の歳月を掛けて完成させ、その時計を元に船の速度による正確な地点を把握するに至り、これにより当時の最長最速の移動手段であった航海術を飛躍的に安定的に進化させたと同時に後の時計の進化においても大いに貢献したのがこの大航海時代の経度の測定に寄与したマリンクロノメーターだった訳です。1号機(H-1)からH-5まで五つの時計を製造し、H-4からほぼ今の懐中時計の大型時計のような形になりました。

時計好きの方は誰でも知っているフランスの時計師、アブラアン・ルイ・ブレゲは時計の数々の機構を開発し、時計の進歩を2世紀進ませたと言われていますが、その前に懐中時計の原型を完成させた、イギリス人時計師、ジョン・ハリソンの名前はあまり表には出て来ませんが、是非覚えておいて下さい。現在、イギリスのグリニッジ天文台の展示室にジョン・ハリソンの作った船上で正確に時を刻む試作時計、H-1からH5まで動く状態に復元され展示されております。 お時間のある方はロンドンから電車で30分、駅からの徒歩15分程度でグリニッジパーク内の国立海洋博物館の一角にあるグリニッジ天文台に辿り着けますのでどうぞ一度足を運んでみて下さい。

さて、肝心の時計のお話をさせて頂きますが、ものすごく箸折って私共が取り扱うヴィンテージ、アンティークウォッチと呼ばれる時計の話をさせて頂きます。元々時計、主に掛時計、置時計、懐中時計はイギリス、フランス等ヨーロッパの個人の時計職人が数名の弟子を携えて工房と呼ばれる製造工房での制作から始まりました。今の時計製造立国とも云えますスイスで時計製造が盛んに行われる様になったのは元々産業に乏しい山間の立地条件の中で分業が成り立ったが故となります。イギリスやフランスの様に主に職人が弟子と何から何まで一つの場所で作り上げる形式はその需要が一部の王侯貴族の為の地位の象徴的なものであったが故需給バランスが保たれていたのです。産業発展と共に一般市民の中により便利なもの、よりラグジュアリーなものを欲する需要は時代と共に増して行きました。その時代背景で一気に世界トップの時計供給国となったのがスイスです。前述しましたが、個々の職人、言わば家内性手工業の達人が多数存在しそれぞれのパーツを同時に製造するという分業方式は早く沢山の時計が製造可能となり、世界中の需要拡大期にはもってこいの製造方法でした。スイスの時計はその様な背景で、製造共同体からマニュファクチュール、製造メーカーの誕生を迎えました。この製造メーカーと各種部品、文字盤、針、ケース、ベルトといった下請け製造会社との関係は近年まで維持され、特にスイスでは各メーカーに機械部分の殆どのベースとなるエボーシュ(キャリバー)製造会社が多数存在しました。現在のコンピューター内蔵の製造機械となった今でも分業の種別は減りましたが下請け制度は続いております。

最新製造機械は部品の組立までロボットが担う段階に来ている様です。

私が初めてスイスを訪れたのは今から40年以上も前になります。私の先入観もあったかも知れませんが、スイスのジュネーブ駅に降り立った時に、そこにはゆっくりゆったりとした空気感が感じられました。

ジュネーブ駅からほど近いレマン湖の辺りのバシュロンコンスタンタン、パテックフィリップのショールーム(店舗)に直ぐに行ってみました。

先ずバシュロンコンスタンタンの店舗の扉を開けると人は居らず、声を掛けるとようやく一人の男性が現れて、12時から14時までは昼休憩14時以降に来て下さいとの事、確かパテックフィリップも私の記憶が間違いでなければ比較的長い昼休みだったと思います。私はそんな空気感がやはり良い物を作るのに適した環境なのだと思いました。その同じ時期の日本は電池式時計の最盛期を少し過ぎたあたりで、電池式クォーツ時計の製造個数では日本が他国をしのぐ勢いがあった時代でした。時計の電子部品化が進み量販店で時計がダンピングされ、時計が完全に工業製品化された時期でした。恐らくスイス時計メーカー各社もいわゆるクォーツショックと呼ばれる電池時計の隆盛期で苦戦を強いられていた時期だったはずです。時計業界の大激変期だった訳です。

私が広島の時計店の限界を感じたのは、むしろ私自身が時計店を継ぐ前に時計業界の慣例を知る術のない事をやっていたからかも知れません。当時の国産メーカーは電池時計の大量生産化が定着し、どんどん時計店に新製品を売込みに営業職が日参していました。その背景で多分メーカーは大量生産をし、当然売る力のあるところに優位な条件で製品を置いていた事と思います。しかしどうしてもメーカーも在庫が余り、それは当然量販店というところにメーカーが特別条件で流していたと思います。その証拠に当時の弊社への納品価格(仕入れ価格)より安く量販店では売られていたりしました。そんな事を繰り返していると当然売れる一番店の様な路面店やデパートの様な格式を売りにしていた販売店以外で仕入れ額を超えて利益を出すのは至難の技でした。その当時殆どのお店が、新製品を仕入れてその支払いは普通3ヶ月先といったサイクルだったと思います。メーカーがどんどん作る新製品を負けじと仕入れてやって行くと、当然赤字経営となります。私のお店も多分に漏れずという状況でした。

1980年中頃には今までの時計店と決別しなければならない状況となっていました。

その頃他店の出来ない何かを探さなければとの思いを強く感じる様になり、私がまだ幼い頃に広島に帰ると時々見かけた光景を思い出しました。それは最後まで会社に残ってくれた時計職人が、金庫から古い時計を出してゼンマイを巻いて具合を見ている光景でした。何故こんな古い時計の具合みをしているのかと尋ねたら、広島が故に原爆投下により壊滅状態になる前に預かった時計はいつ持ち主または家族が取りに来るかも知れないので大切に保管しているというのです。子供ながらその事の意義を何か感じ取っていたのだと思います。他店との差別化の物を探していた私はようやく扱いたい物に出会った思いがしました。それからという物、古い時計を入手するためのルート探しに奔走しました。たまたま海外に留学している友人が何人か居たので、彼らに声を掛けました。すると殆どの友人が、時計屋や古い物を専門に扱っているお店が意外に身近にあり、それらの業者が集まるマートと呼ばれる展示会の情報等調べて連絡をくれました。

幸い留学している友人の中に、積極的に古い物を扱う業者や展示会に出向いてくれる協力者が現れました。当然手数料を渡すと彼も小遣い稼ぎに頑張ってくれました。彼のお陰で、展示会(マート)で出会う信用の出来るディーラーと海外で会う以外は当時はFAXでやり取りをしました。コピーやFAXの機器の進歩と共に文字だけの情報が、ある程度白黒ですが立体的画像のやり取りも可能となり(立体コピーが取れるコピー機である程度の立体画像を取り、FAXでリストを連絡する)具体的に細かな点を聞き合わせ出来るようになり「買う」「買わない」の判断がイチかバチかよりより良い判断が出来るようになりました。ただし自分と相手には時差があります。情報が夜中に来て、朝までほっておくと何点か売れてしまっていたりしますのでそればかりは相手とオンタイムでやり取りする為、仕事を終えてからプライベートな時間を過ごしてまた仕事と言った感じでした。こうして海外ディーラーとのやり取り、海外での買付けと自ずと信頼出来る仲間、場所が構築できて行きました。1990年代に入るとインターネットの普及で確実に変化を迎えました。良かった点で言えば、より海外の相手も画像を通して品物が確認出来るという点でこれはかなり間違いのない物の入手という点では助かりました。しかし逆にアメリカ等は西部、東部、北部、南部とそれぞれの箇所で価格が安い高いがありましたが、アメリカ国内の価格がインターネットの普及によって統一されて行きました。早く言えばあそこの地区では意外に安く買える、という妙味が無くなって行きました。またインターネットを介して売り方も変わりました。

一般的に各自ディーラーが独自のホームページを立ち上げて、より広く販売に力を入れたり、ネットオークションに出品して幅広い地域で購入可能になったり、良い事ばかりではありませんでした。機器の発展、ネットワークの広がりはやり易さと思わぬ弊害も発生しました。仲良くしていたディーラーが急に情報が来なくなったと思っていると、次回からはネットオークションサイトを利用して下さいとなったりしました。相対的には自分自身も色々なサイトや情報を得られるようになり、何よりも沢山の物を見るという事においてはかなりの研鑽を積めた事には間違いありません。今まではマートという沢山のディーラーが集まる展示会等に行かなければ沢山の物は見られませんでしたが、ネットを通してかなり沢山の物を見れたり、知識を得たり出来るようになったことは大きなプラス材料でした。

スイス時計業界は2000年頃を機に大きな変革が起きました。それは1980年代中頃からスイスメーカーの製造機械が大きな変換点を迎え、コンピューター内蔵の精密機械製造機器へのインフラ整備が急務となり巨額な資金が必要となりました。その為自己調達が出来ない製造メーカーは殆ど巨額ファンド企業体グループの傘下となって行きました。時計業界関連で言えば、スウォッチグループ、モエヘネシールイヴィトングループ、リシュモングループが最大手となります。

この事は今まで各メーカーが独自の製造方法で時計を作っていた約300年(スイスで時計製造が始まった最古の時計メーカーは1735年創業)の間のそれぞれの工法の蓄積を残念ながら必然的に破棄せざる得ない状況となり、最先端のコンピューター内蔵製造機器に変わった段階で同じ機械を使うメーカー全てが同じ工法となった事を意味します。これによって一般的に言われている80年代までの時計とそれ以降も物は同じモデルの継承モデルといえども全く違うテイストとならざる得ない状況となりました。今まで高級品はトップクラスの技術を持つ職人が丁寧に時間をかけて仕上げたものであり、価格帯におけるそれぞれの時計はその価格帯に見合った施術、工法を用いて作られていました。ですから自ずと高級品とそれ以外とでは大きな質感の差異が分かりやすく見て取れました。今の最先端製造機械による製品は殆ど同じ機械で製造される為、出来上がった物に大きな違いは感じられないといった事が起こっているのです。それをもっと分かりやすく言えば、最近のコピー製品の時計を見て下さい。最近のものは見た目では全く見分けがつかないくらいそっくりに出来上がっているのを見かけられた事があると思います。昔のコピー品と比べるとレベルが全く違います。それは本物を分解し、採寸し数値を最先端製造機器に打ち込めばほぼ同じものが出来るのです。現代の時計製造が人の手から離れれば離れるほど物が均一化するという現象です。現代作られた時計と昔の手でコントロールして作っていた時代とでは今や製品の出来上がりの状態が全く違う質感に気づかれている方も多いと思います。

今まで述べてきたように2000年頃を境に時計メーカーが企業グループの中に統合されると、製造機械はほぼ統一され、結果それによって作られた時計はデザインこそ異なるものの、出来上がりの質感はほぼ同一のものとなりました。それまでの時計の製造は個々のメーカーの蓄積した技術で作られていました。その蓄積された物はそのメーカーの長い歴史に積み上げられたそのメーカーの製造ポリシーに裏打ちされたものが故に正にそのメーカーの時計に対する姿勢を表したものである訳です。現在のコンピューター製造機器は正確さとスピードが大きな特徴であり、そこにそのメーカーならではの味わいは工程の違いによって若干加味されますが、一つ一つの部品の仕上がりのスピードは同一の速度が要求されます。仮に文字盤だけ人力の時間をかけた物を使うなどは全体の製造速度を損なう為ほぼ行われる事はありません。簡単に述べると職人の作るそれぞれのパーツを待つ等時間を費やして一つのものが出来上がる古き時代の時計と全て均一化されたスピードの基で作られる物は大きな違いが発生します。このことは昨今復刻モデルが各メーカーから出ておりますので、可能な方は古いオリジナル製品と現行復刻品を比較すれば分って頂けると思います。勿論価値観はそれぞれ違いますのでほぼ人力から離れた最先端機器で作られた物を好む方はむしろ多くいらっしゃるかと思います。しかし私が手で作った物に重きを置いている一人の時計好きの者として申し上げたいのは、人が描いた絵と仮にコンピューターを駆使して描かれた絵をご想像頂ければ私考えもご理解頂けるかと思います。勿論時計に関しましては古い物は長い年月を経ての消耗や劣化もありますので、全ての物を今の物より良いと言うつもりは有りませんが、年月を経て経年変化も加わり良い状態に保たれた物を見ていると、本当に沢山のストーリーがそのの中から感じ取れます。 先ずはそのメーカーの歴史(ストーリー)、そのモデルを作るにあたっての時代背景のストーリー、購入者が購入を決めるにあたっての出会いのストーリー、長い間使用してのストーリーと非常に多くのストーリーがそこには詰まっています。そこには自ずと愛おしさが感じ取れます。そのようなストーリーを全て理解(想像)して身近な装身具として付けて楽しむ、これがヴィンテージウォッチを楽しむ神髄のように感じます。

それぞれの方の価値観による選択で良いと思います。 もしかするとご自身の愛用時計はご家族以外で一番長く自分と共に歩んだ「相棒」であると言えるかも知れません。

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